<strong>河原温</strong>(かわら おん、(1932年12月24日 - 2014年6月27日[1][2])は、日本の美術家。コンセプチュアル・アートの第一人者として海外で高い評価を得ている。 公式なバイオグラフィーは「29,771 days」とだけ記載されている。 概論 ----- 愛知県刈谷市の生まれ。生年は1933年1月2日とする説もある[3]。愛知県立八中学校(現愛知県立刈谷高等学校)卒。 1950年代から芸術活動を始め、グロテスクな「浴室」シリーズ、「物置小屋の出来事」などの鉛筆素描の連作は現在でも高い評価を得ている。その後、「印刷絵画」の実験的な試みや、言語による作品を制作した時期、数年間のメキシコ滞在を経て、1965年頃からニューヨーク市を拠点として活動していた。 渡米後の作品は、1950年代の具象的な作品群とは作風もコンセプトも全く異なるもので、「時間」や「存在」をテーマとした、観念的なものとなる。1966年から描き続けられている「日付絵画(Todayシリーズ)」は、リキテックスで単一色に塗られたキャンバスに、その「絵」が制作された日付だけを、筆触を全く残さずに描いたものである。制作はその日の0時からキャンバスの下塗りを始め、起床後に黒色などで地を塗り、白で「年月日』」書き入れ、その日のうちに完成させた。完成後の保管は、その日の新聞を入れた箱におさめられている。また、その日の24時までに描き終わらなければ廃棄していた。他に、常に同じ「I am still alive.」という文面の電報を世界各地から発信するシリーズ、過去と未来それぞれ百万年の年号をタイプした「One Million Years」、絵葉書にその日河原が起床した時刻だけを記して特定の相手に郵送する「I Got Up」など、いくつかのシリーズがある。 河原はTodayシリーズを始めた1966年以降、カタログ等にも一切経歴を明らかにせず、公式の場に姿を見せず、作品について自己の言葉で語らず、近影やインタビューなども存在しないなど、その実像を隠し続けた。 2002年、カッセルのドクメンタでは『One Million Years』が展示されるとともに、ブースに入ったアナウンサーが5分間『One Million Years』を朗読するパフォーマンスが行われた。 経歴 ---- 日本時代 ------- 河原は1932年(1933年説もある)、愛知県刈谷市に生まれた。生年については、人名事典等には1933年1月とあるが、河原は展覧会のカタログ等に自己の生きてきた日数を「1998年1月24日現在23,772日」のように記しており、ここから逆算すると1932年12月の生まれとなる。[4] 河原は地元の刈谷高校を卒業後、1951年に上京した。少年時代のことや、絵画を始めたきっかけなどについては資料がなく、詳しいことは不明であるが、正規の美術教育を受けた形跡はない。上京後、1952年に東京・新宿の「ブラック」というコーヒー店で初の個展を開催したことが記録されているが、出品作品等の詳細は不明である。同年には読売アンデパンダン展、日本アンデパンダン展(いずれも東京都美術館)にも出品している。 日本時代の作品は一貫して具象画であり、油彩のほか鉛筆素描に優れた作品を残している。 河原が注目を集めたのは、1953年の第1回ニッポン展(東京都美術館)に出品した鉛筆素描の『浴室』シリーズであった。タイル貼りの閉鎖的な空間(浴室)に妊婦を含む人物が立ち、断片化した人間(あるいは人形?)の胴体、手足、首などが重力を無視して浮遊するという不気味な光景が描かれているが、人物が半ば戯画化されているため、凄惨さは抑えられている。河原は1950年代には他に『物置小屋の出来事』『死仮面』の鉛筆素描連作を残している。油彩画は、変形キャンバスに遠近法を極端に強調した構図のものが多く、大原美術館所蔵の『黒人兵』(1955年)などが知られている。 後年の河原はインタビューや写真撮影に応じなくなり、自作について文章を書くこともなくなったが、1950年代には『美術手帖』『美術批評』などの雑誌にしばしば寄稿し、座談会、アンケートなどにおいても盛んに発言していた。[5] 日本時代末期 - メキシコ時代 ----------------------- 河原は1959年に日本を離れ、メキシコにしばらく滞在した。以後、パリ滞在を経て、1965年からはニューヨークを拠点として制作している。 離日直前の1959年には「印刷絵画」の制作を手掛けた。その発想と技法について、河原は『美術手帖』誌155号(1959年臨時増刊号「絵画の技法と絵画のゆくえ」)に45ページにわたって自ら解説した文章を載せている。同記事で確認できる限りでは、「印刷絵画」は少なくとも3点制作されたが、あまり話題にならずに終わり、作者もこの方面をこれ以上追求することはなかった。 河原は1959年離日してメキシコに向かい、1962年まで同地に住んでいる。以後、時折日本へ帰国はするものの、制作の拠点は国外に移している。当時の日本では、一般国民の国外への渡航は制限されていた。河原がメキシコへ向かったのは、エンジニアとして同国に滞在していた父親の縁故があって渡航が可能であったためで、必ずしもメキシコないしメキシコ美術に特別な関心があるという理由からではなかった。 メキシコでの河原の活動についてはあまり明らかでない。この時期の作品は残っておらず、作者自身によって破棄されたとも言われている。1961年にサロン・デ・ラ・プラスティカ・メヒカーナ(Salón de la Plástica Mexicana)にて『ビビ夫.

河原温 — 彼はまだ大丈夫

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